あれから10年…改めて防災の備えについて考える
その他
2021.03.11
地域活性化の為に魅力ある地方企業づくりのお手伝いをさせて頂く、
ディーズビジネスコンサルティングの佐藤です。(‘◇’)ゞ
【おはようございます】
薄曇りの朝でした。
am5:45少し白地んだ空。
3月11日…10年前のこの時間。
pm2:46に起きることなど何も考えず、
出社の準備をしていたはずです。
あれから10年…色々なことがありました。
こうして活きていることに感謝し、
これからも歩んでいこうと思います、あの日を忘れずに。
【世相】
東京の新規感染者数は300人を越えました。
変異株のクラスターの話しもあります。
また、北海道でも変異株によるクラスターが。
食品企業のパーティーでのクラスターのようです。
そこには変異株感染地域からの参加者が居たという情報。
こういう実態を見ると、まだまだ県をまたいでの往来は
二の足を踏んでしまいます。
結果、火種を持ち込んでしまう可能性があるわけですから。
より慎重に考えて、行動するしかありません。
リスク管理の基本…かもしれないを常に念頭に置いて。
FUKUSHIMA 50という映画、ご存知でしょうか?
2011.03.11に福島第一原子力発電所で何が起きていたか…。
極限下に置かれた原発事故で最後まで対応した50名の方々を
中心に描かれた映画です。
吉田所長を演じたのが渡辺謙氏。
現場責任者の伊崎利夫を演じたのが佐藤浩市氏。
最悪の事態を避けるため、過酷な環境での炉内侵入。
現場責任者の伊崎氏は…。
「危険がある任務、未来のある若いものには行かせられない」
「50歳以上で選抜する…希望者は手を挙げてくれ」
そういって自ら手を上げる…。
そうすると若手も含めて次々に手を上げる。
ベテラン技術者役の火野正平氏が…。
「若いもんには任せらんね、課長も指揮取るんだからいけない」
「俺らに任せてここで指揮取ってくれ」と。
その後も次々と起こる爆発。
吉田所長は管理職以外の社員の退避と関連会社社員の退避を指示。
そして出動していた自衛隊、レスキューメンバーにも
「退避してください、今までありがとうございました。」
その言葉に対して自衛隊の部隊長は…。
「民間人が戦いを放棄していないのに、我々が去るわけにはいきません」と。
結果、メルトダウンによる大爆発という最悪の事態は避けられしたが、
なぜ避けられたのかは正直不明だそうです。
もし、最悪の事態になっていれば日本の半分は人の住めない土地に。
国、東京電力本部、現場…それぞれのやり取りもBCPの参考に。
反面教師の方が多いと感じましたが…。
あの日、停電の中、車のTVで見ていた状況がそれほどの状況とは
全く知りませんでした。
もし、機会があればご覧になることをお勧めします。
【お題】
「あれから10年…改めて防災の備えについて考える」について一言(‘ω’)ノ
東日本大震災から10年。
あの日、あの時間会社に居ました。
当時生産、品質、技術を見る課長職。
それまで避難訓練等を通じて備えていたつもりでしたが、
実践では色々と課題が見えました。
その後、反省点をつぶしてきました…反省から学ぶことが多かったです。
会社が一段落し、社員を全て帰宅させた後、管理者も退社。
近くのスーパーによって、飲み水とパン等を探しましたが、
時すでに遅し。
ただし、水以外のお茶、ジュース、腹持ちしそうなお菓子等が変えたので
3日ぶんくらいを目途に買いました。
藤島地区から余目地区の境目で道路灯が消えていました。
鶴岡地区は偶々、電線工事の関係で中部電力から電気を引いていたので
停電が無かったのですが、余目、酒田は停電。
自宅は真っ暗。
幸い家族は無事。
家屋の被害も見る限り大丈夫。
ただ、室内は一部破損。
部屋のガラステーブルに棚から落ちた陶器の貯金箱が落下し、
絨毯の上がガラス屑で歩けない状態でした。
翌日も管理者は会社に集合。
状況確認と非常対応(出荷)を実施し帰宅。
会社に行く前に行きつけのガソリンスタンドに朝一乗りつけ
オープン前でしたが、満タンにしてもらいました。
ここで満タンにしておいた…明暗を分けました。
こういった経験を踏まえ、会社も当然様々な打ち手を講じましたが、
自宅でも色々と対応してきました。
ガラス製のテーブルは二度と買わない。
棚、タンスの固定。
車は燃費性能重視、且つ、電源搭載車とする。
そして防災グッズの購入です。
災害時に持ち出せるリュックタイプを購入。
人数分のヘルメットも準備しました。
瓦等の落下物も危険です。
リュックの中身を再確認。
水、白飯の賞味期限もOK。
ただ、最低限の感は否めません。
現実的に食料、飲料水にしても備品にしても不安です。
リュックにはこれ以上入らないので、使っていないバッグを使用し、
もう少し補充しようと思います。
3月11日…皆さんも改めて防災の備え、考える機会にしてみませんか?
あの日を忘れない為にも…。
【ご当地探訪】
※今日振り返るのは「酒田市 日和山公園」です。
震災の日、やっと連絡とれた友人。
仙台在住ですが、勤務先が塩釜になっており心配していました。
やっと連絡が取れたのは3時間後。
車に乗っていた時に地震。
避難警報がなり車で高台に向かいましたが、道路が渋滞。
諦めて坂を走って移動したそうです。
そして高台から押し寄せる津波を見て呆然としたと。
仮に海沿いで津波警報がなったら、酒田では日和山公園が最も近い高い場所。
この灯台を目指して走る…もしもの時に覚えておきたいものです。